Post
境界

世界(あらゆる存在)は何によって構成されているのだろう。存在の真相を知りたい。物質と精神だけの二元ですべてを説明できるのだろうか。それともリアルに感じている現実の数々がイマージュにすぎないのかもしれない。いや、おそらく我々は哲学を通じて世界の新しい構成要素を発見するのではなく、単に言葉によって成り立つ世界の1つの語り方を見つけ出すのである。私は語り方を見つければそれを表現して検証する。作品を通して見る人と世界観を共有すると同時に、解釈の差異によってお互いの世界を押し広げようと望んでいるのである。自分とはどういう存在なのか、世界とはどんな存在なのか、その問いに答えるような事実は作品にはない。でもヒントやメッセージはどこかに隠されていると思う。

“Existence” Series 「存在」 シリーズ
スポットライト、赤外線センサー、フラッシュライト、絨毯 / インスタレーション / 2500x2900x7000(展示空間)
2003.4.22 – 4.28 / 個展「越境するメッセージ」Message in Progress

黒い暗幕をめくって暗い部屋に入れば、足の先から6メートルの赤い絨毯が続いている。その先にはスポットライトの丸い明かりにあてられた小さなステージがある。ほとんどの来場者は自然にそのまま赤い絨毯の上を歩いて、ステージにあがった。ステージの上に立ったとたんに、スポットライトの明かりは瞬時に消えて、かわって現れるのはランダムに繰り返されるフラッシュだ。気づけば、壁には何も飾られていなくて、自分を囲んでいる(30本もの)カメラ用フラッシュライトの実体さえ目で確認できない。ステージを下りるまで、目に残像が焼きつくほどの光とその後の暗闇をただ1人で体感するのである。

「独我論」をめぐって昔からさまざまな議論がなされてきた。「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」、「私の意識だけが唯一ほんとうに存在するもので、ほかの一切は私の意識への表れである」という主張が意味するのは「世界とは私、私が存在している」。つまり、もし私が存在しないとすれば、ある意味でそれは、何も存在しないのと同じである。

私の見えるものや意識の外にあるものが存在すると言えるかどうかが、独我論をめぐる最大の問題であった。しかし、哲学者ウィトゲンシュタインは意識主体が無数存在している(1人ではないという)ことを前提に考えた。他者とを区別できるこの「私」がほかの「自我たち」とはまったく違ったあり方をしたのはなぜかという問題である。

世界がどうできているのか、その範囲を知ることは世界の限界を知ること。世界の一つの解釈を知るたびに、私はその限界の「境界」に立つことができるような気がする。しかし、その境界以外のものは何も見えてこないはず。それが限界だから。むしろ、重要なのは限界の境界に立って内側を見ることだろう。

鏡を見るだけでは、我々はまた外皮しか見えないだろう。それも写像にすぎない、実在ではない。

今回の作品はそうした「境界に立つ」ことをイメージした空間である。つまり、あなたは自分の境界を越えて、私の世界へ飛び込むことができないし、私と何か共有できるわけでもない。それぞれの境界は交差しない。なぜなら、同じものを見ても、同じ言葉使って会話を交わしても人はそれぞれ自分の世界の中で自分なりに解釈して、そして受け入れているのだ。新しい知識を身に付けるように、あなたはこの作品を自身が体験、理解と解釈によって自分の限界を広げて、また新たな境界に立つだけのことである。