「存在」 シリーズ
"Existence" Series
/インスタレーション
/2700x1200x300
/紙銭、ハロゲンライト、パソコン
/京都精華大学院芸術研究科修了制作展2002
/2003年2月19日(水)〜2月23日(日)
この作品は幅2.5m、奥行きと高さとも4mの暗室に設置されています。100kgの紙銭が積み上がった塊の内側から光が放つようになっています。その微弱な光量は呼吸しているようなリズムで変化をしています。薄暗い空間の中で、見る者が物体へ近づくとたん、光は一瞬にして全開し眩しくなります。また数秒間の内に消えて暗室を完全な暗闇へと変えます。そのとき目にとまるのは物体の残像のみとなります。
現代生活の映画や電話などのメディアにおいて、認識の対象が目にさえ見えれば、声さえ聞こえれば一種のバーチャルな現実として我々の中に成立していることに空しさと不安を感じています。物と事が氾濫する日常生活で我々の感覚が麻痺してしまいます。そこで、哲学と芸術を通して事象を解釈、分析から理解、発想までの過程を経て鋭い感覚と豊かな知覚が得られると思います。
感覚と知覚を語るにはまずその対象となる物事、或いは事象のありかたの解釈から始めなければいけません。二元論的に世界を定義すれば「物質と精神」の二元のみになりますが、その解釈に私は疑問をもつことから制作のコンセプトにしました。
「存在」とは五感(=感性)を通して外界の対象をとらえた知覚の瞬間です。しかし、人間の認識は世界の物事を受動的に写し取るものなのか、それとも人間は世界に能動的に働きかけ、認識の対象を自ら作り上げているのでしょうか。
暗闇で手すりが見つかって手で強く握ればその物質的な存在の認識が確信に変わります。一方、精神の存在の認識が確信に変わるまでは明確な条件が存在しないことに気づきます。その目に見えない、手に触れられない、音やにおいさえしない存在はどうとらえられるのでしょうか。
人の身体を触れればその中に潜まれている生命が感じられます。この作品で紙という物質に潜まれている精神の存在も光から感じられるのでしょう。精神は光と同じように形もなく手に持てる重さもないのに、確かな「存在」を訴えています。また、その存在を認識したら、五感を遮断しても残像のように残るのです。
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